「愛」そのものよりも、あとに続く「合ってる」の方こそが…
10月5日は午前中から稼働。まず、新宿・バルト9へ。映画『愛し合ってるかい? 忌野清志郎が教えてくれた』を見て、いったん自宅へ戻りインタビュー取材に。そのままプロレスリングFREEDOMS後楽園ホール大会へ向かうという行程だった。
できれば午前中は避けたかったが、こうもスケジュールが詰まるとその時間帯しかハマらない。シアターはけっこうな人数で埋まっており、リアルタイム世代と思われる層がほとんどだった。おそらく若い人たちは夕方以後に来るのだろう。
私の音楽における守備範囲を知る方々であれば「なんで鈴木健.txtがRCサクセションの映画なんだ?」と思うのかもしれない。ただ、あそこまでいくと文化として押さえるのは当然の存在だし、それ以前にちゃんとファンでした。
私が通った高校は当時、都内でも有数の校則が厳しい学校だった。男子は刈り上げ、女子は三つ編みで画一化されており、なおかつ学業的にも学校生活的にもキツい縛りに若者らしさを失い、死んだ魚みたいな目をしていたものだから、2種類の量産型ロボットが無機質にうごめいているような校内だ。
放課後には教師たちが渋谷と新宿に“パトロール”へ出る。校則を破る生徒がいまいか見回るためだ。喫煙などはもちろん、男子生徒と女子生徒が制服で手をつないでいるところを見られたらアウト。喫茶店はおろか、マクドナルドさえも入るのを禁止されていた。
高校生といえば、もっとも多感な時期。文化にどんどん触れる必要があると思っても、映画でさえ見にいったと知られたら何を言われるかわかったものではない。そうなると書店か、家に帰りテレビを見るぐらいしかポップカルチャーに接することができなかった。
もっとも、そういう“法の目”をかいくぐり、映画やコンサートにいく者たちもいた。私は私で、プロレスがその対象だった。それでも、今と比べると非日常的なイベントに接する機会が圧倒的に少なく、レコードやFMラジオを聴いては「このアーティストを見てみたいな」と思いを馳せるしかなかった。そんなある日、クラスメイトがひとつの計画を明かした。
「今度さ、RCサクセションが千葉でライブをやるんだよ。東京だとヤバいけど、千葉なら見つかることもないだろ。学校が終わってからでも急げば間に合うし。健もいく?」
プロレス仲間3人ぐらいのグループがみんなでいくというのだから、自分も手をあげぬわけにはいかない。何よりも、RCを生で見られるなんて高坊の自分にとっては夢のようなことである。
誘ってくれた彼らとは、特別にその話で盛り上がったわけではない。むしろ自分は当時からYMO好きを公言していたので、テクノな人間とみなされRCを好むロックンロールなタイプとは認識されていなかった。
だが、ちょうどその頃に忌野清志郎がYMOの坂本龍一とのコラボで『い・け・な・いルージュマジック』を発表していたため、それつながりで誘ったのだろう。実はすでに、RCは聴いておりこのツアー中にリリースされた『BEAT POPS』が、アルバム一番のお気に入りとなった。
通常は曲やリズムから入る自分にとって、数少ない歌詞に感化されたアーティスト。とにかく、そのリリックはオトナを感じさせた。
ポップスや歌謡曲でも愛だの恋だのを歌うが、同じ事象をデザインしながらまったくアプローチの仕方が違っていた。使う言葉はもしかすると歌謡曲のそれよりも青臭いのに、情景描写は鼻血が噴き出すほどにアダルト…そんなギャップがたまらなかったのだ。
一つ例をあげると、同アルバムに『恐るべきジェネレーションの違い~OH,YA!』という曲がある。これは「大家」と「OH,YA!」を引っかけており、部屋を借りる若者との考え方の相違を描いたものだ。
「大家の言うことはわかる。だけど僕は悪いとは思わない。どこかに気の合う大家はいないのか?」などの部分はストレートでわかりやすい。その流れの中へ、ふいに「朝うるさい、家賃が遅れる。女を連れ込んでる、ベイベー」の一節が挿入される。“女を連れ込んでる、ベイベー”の箇所だけが大人びており、十代のガキにとっては刺激的で、なおかつカッコよく映ったのだ。
そのへんの歌手が同じ詞を歌うと背伸びしていたり、単に助平としか聴こえなかったりするのが、清志郎のヴォーカルだと色気があり、オトナのカッコよさがあった。それがロックのビートに乗って放熱されるとあれば、生で体感したらどんなことになってしまうのか――チケットも友人に取ってもらい、あとはライブ当日を待つのみだったのだが…。
結果的に、私はRCのライブにはいけなかった。直前で親にストップをかけられたからだ。
高校生が見るシロモノとして不適切だと判断された。「あんなものはくだらない」の一言で片づける父だった。親に逆らうほんの小さな勇気さえ持てなかったせいで、私はRCのライブを一度も見られぬ人生を送ることとなってしまった。
あの時、言うことを聞いたところでなんのメリットもポジティブな形も現時点で得られていない。それでも今もって、父は自分の命令が正しかったと胸を張れるのか。
「すっげー、よかったよ! やっぱり清志郎はサイコーだよな」
ライブを見にいった友人たちは、翌日の学校で渋谷陽一顔負けの雄弁なライブレポートをしてくれた。それを聞けば聞くほど「なんで親に叱られてでも来なかったんだよ」と言われている気がする。だからたぶん、つまらなそうな顔で下を向きながら聞き流したのだと思う。清志郎は「上を向いて、歩こうよ」と歌うのに。
すると、グループのリーダー格・SがカバンからB4サイズの冊子を取り出した。カラフルなステージショットがコラージュされた表紙のそれは、コンサートのパンフレットだった。
「お土産だよ。いけなかったのは残念だけど、せめてこれを見てRCに浸ってくれよ」
聞くと、みんなでお金を出して買ってきてくれたらしい。その思いやりには感謝するばかりだったが、よけいに複雑な気持ちとなる自分もいた。「先生に見つからず家へ持って帰れよ」と言われ、中を見ることもなくすぐにカバンへと仕舞う。
そして授業が始まった。とはいえ頭の中はライブの想像が膨らみまくり、それどころではない。
膨らめば膨らむほど、いくのを諦めてしまった自分に腹が立った。授業とはまるであさっての方向へ気がいっているところで、先生が私を指す。
「鈴木、この問題に答えてみろ」
まるで話を聞いておらず、答えられるわけがなかった。普通ならば「わかりません」とだけ言って、あとは先生に怒られるだけだ。
ところがその時、自分でも信じられぬリアクションをしてしまった。意図的ではなく、衝動に駆られたとしか思えない。
清志郎の声色で「おいらは先生の話をまったく聞いていなかったんだぜ、イエ~!」と口走っていたのだ。一瞬、鎮まり返った教室が次の瞬間には大爆笑へと包まれた。ウケたのではなく、あまりに予測不能なことが目の前で展開されたため、笑うしかないというリアクションだ。
その中で、くだんのRC好きの友人たちは「ここでそれをやるかよ…」と呆れ顔。先生は…完全にバカ負けし、怒る気さえ失せたという感じだった。結局、清志郎のマネをしたことによって、私は叱られずに済んだのである。
高校を卒業した頃には、RCサクセションは世間的にも不動の地位を確立。もう、ロックが好きな不良どもだけのものではなくなっていた。『SUMMER TOUR』はヒットチャート上位にランキング、清志郎は大手自動車会社のCMに出演し、お茶の間の登場人物となった。
もちろん、周りにどう見られようともRCはRCであり、清志郎は清志郎のまま。世間が都合いいように置き場所を変えるべく目論むほど、清志郎はアイロニーな返答をかます。やがて世の中への浸透度と反比例するかのごとく、RCの活動はフェードアウトしていった。
バンド的にも本当に完成形へと到達した感があったが、当時の本人たちはそれが本意だったのかはわからない。フォークバンドとしてデビューしながら、時代の気分と自分たちの感性により別の要素を抵抗なく採り入れ、ロック、R&Bと過程を踏む中にも常にパンクの感覚をミックスさせ、独自のスタイルを築いたからこそ「キング・オブ・ライブ」の称号をまとえたのだと思う。
1991年にRCが活動を休止すると、忌野清志郎の名前は一人歩きし始める。ミュージシャン活動を続ける一方、役者として映画やテレビにも出演。ロックを聴いたことがないようなおばちゃんが「キヨシローさん」と普通に呼ぶ違和感を覚えつつも、それが時代なのだと思うしかなかった。
ニューウェーヴバンド「有頂天」のリーダーだったKERAが、映画監督ケラリーノ・サンドロヴィッチとして撮った初作品『1980』に、清志郎がカメオ出演した。何気ないサラリーマン役なのだが、それを清志郎が演じているだけで80年代の香りが漂う。
ファン時代に影響を受けた世代がクリエイターとして陣頭へ立つ時代になったからこそ、彼らは世間と違った清志郎の価値を皮膚感覚でわかっていた。世の中でどんな立ち位置にされようとも、忌野清志郎は「愛し合ってるかい?」と叫ぶ僕らのアイコンだったのである。
自分史が長くなってしまった。なぜこれを書いたのかというと、この映画を見ていてもっとも驚かされたシーンとつながるのである。