2001年8月12日の両国と秋葉原からつながる超日本プロレスという世界線
9月29日、超日本プロレス新宿FACE大会へ。自分にとっては、これが同会場へ赴く最後の日となる。それに関しては別レターで明日、書きます。
髙木三四郎30周年記念プロジェクトとしてスタートしたM&Aプロレスが、何食わぬ顔で超日本プロレス(DDT旗揚げ前に野澤一茂=NOSAWA論外が考えた団体名案)へと変わり、気がついたら永田裕志が不動のエースとなった1年7ヵ月にも及ぶ足跡。バラモンユージと化して口から青いお告ゲルを出し、57歳で青木真也と30分間フルタイムの激闘を繰り広げ、額に竹串を刺されても闘い、ポイズン澤田JULIEの蛇人間改造エキスを飲んで蛇田裕志に変身する…このように書き連ねると、超日本はブルージャスティスの遅れてきた青い春と言っていい。
そんな永田がアイアンマンヘビーメタル級王者となり、同じ新日本プロレスの小島聡を挑戦者に迎え防衛戦をおこなうというシチュエーション。「プロレスは長く見るほどに得をする」とは今まで何度も書いてきたが、同時に「プロレスは長く見るほどにあり得ないことに巡り合える」も言えるのだと、強く思う。

今、もっともアイアンマンのベルトが似合う男こと、超日本プロレス不動のエース・永田裕志
2人にとってもお互いが五十代になってシングルマッチをやるのも想定外だろうし、ましてや新日本以外のリング(それも所属のまま)とは、業界きっての予言者であるザ・グレート・サスケの中にも降りてこなかったはず。もともとは「あの時、DDTではなく超日本プロレスを団体名にしたらどうなっていたかの世界線」が髙木のコンセプトだった。だが、もはやそういったものを超越する展開となっている。つくづくプロレスというジャンルは、物事が一人歩きを始めることで生じる“膨らみ”の度合いが凄まじい。

元・全日本プロレス&プロレスリング・ノア社長の内田雅之・超日本プロレス顧問が立ち会い、裁くはノアの西永秀一レフェリー、元・全日本の木原文人リングアナウンサーがコールと、何もかもがメジャーなタイトルマッチ
そうなったのは一にも二にも、髙木の描いていた以上に永田が超日本へのめり込んでいることに尽きる。当初は周りの選手たちや観客に祀り上げられている感も拭えなかったが、やり甲斐と心地よさを覚えたのか自ら「超日本のエース」と口にし、小島とのタイトルマッチを新日本vs超日本の対抗戦と位置づけた。
どんだけ超日愛を持っているのかとツッコミを入れたくなるほどのその姿勢が「2ちゃんねるよりももっと前からインディーを見て、mixi日記で試合リポートをせっせと書いていたような人たち」(阿部史典・談)の心を揺さぶらぬはずなどない。超日本で狂い咲きする永田裕志と、それを傍らから盛り立てては嬉しさを隠しきれずにいる髙木を見るたび、私は2001年の夏を思い起こす。25年前、DDTはまだまだ弱小インディー団体であり、メジャーがやらないことでファンの関心を引くのが命綱だった。
その年の8月12日、当時あったJR秋葉原駅昭和通り口広場(現在のヨドバシあたり)で野外興行を開催したのだが、同時刻には2駅隣の両国でG1 CLIMAX 11の最終戦がおこなわれていた。露骨なまでにそれを意識する大会名は「裏番組をブッ飛ばせ! DDT秋葉原夏祭り」。史実的にはHERO!(HARASHIMA)が佐野直を相手にデビュー戦をおこなった大会でもある。
試合中、ハンマーを使いフロントガラスを叩き割った車の上で三四郎集会をおこない「両国国技館ではG1の優勝戦をやっているけど、俺たちだって負けてねえよなあ、FIRE!」と髙木が盛り上がる頃、武藤敬司を破り初優勝を遂げたのが永田だった。その週の週刊プロレスでは、一方が当然のごとく表紙となり、もう一方はカラー2ページが関の山。秋葉原と両国の距離以上に、当時の新日本とDDTには比べものにならぬほどの差があった。