阿吽の呼吸による空間芸術
10月21日は全日本プロレスのプレ旗揚げ戦の日(1972年)ということで、天龍源一郎さんと和田京平さんのトークライブが開催されました。私は進行で参加。いつもは嶋田紋奈代表をはじめとする天龍プロジェクトのスタッフさんしかいない北沢タウンホール12階のスカイサロンにいってみたらば、たくさんのビデオカメラがすでに回っております。YouTube公式ch用だったりABEMAだったりと、いくつかのメディアが入っている模様。
紋奈代表に座らされ、いきなり天龍さんとの雑談の様子を押さえられるという、駆けつけ3杯ならぬ“駆けつけ天龍”からのスタートです。そうこうしているうちに京平さんも到着。お二人の会話は、京平さんが天龍プロジェクトの会場へ顔を出す時に至近距離で見ていたのですが、まあこれをイベントの形でやらないのはもったさすぎるだろうと毎回思うほどの内容になる。

でも、聞くとお客さんの前でお二人が揃って話すのは今回が初めてなのだとか。もう何回もやっている印象でした。年齢的には天龍さんが4つ上で、全日本に入ったのは京平さんが4年ほど先。ただ、当時はリングスタッフということでプロレスラーは雲の上の存在。会話など交わす機会はなかったらしい。
そして天龍さんの試合を裁くまでも長くかかったそうなのですが、転機となったのが天龍革命。1987年8月31日に日本武道館でジャンボ鶴田との革命後初の一騎打ちがおこなわれたのですが、この時に先輩のジョー樋口さんが「京平、おまえが裁け」とメインのレフェリングを譲ったことで、初めての大舞台を経験。
それまでタッグマッチや6人タッグマッチなどで天龍さんの試合を裁いたことがあっても、いきなりのビッグマッチのトリ。でも、この時の京平さんの裁くテンポがやりやすかったため、その後も天龍さんがメインを務める時は京平さんがレフェリーを担当するようになりました。
そうなった以後はよく天龍同盟の酒の席へと誘われるようになるわけですが、飲めない京平さんは逃げ回っていたそうです。でも、天龍さんとしては京平さんにいてもらった方がいい。なぜなら、飲み代がなくなった時に、京平さんに言ってジャイアント馬場さんからお金を引っ張り出せるため。
ほかの人間だと、なかなか馬場さんに「酒代をごっつぁんです!」とは言えないですが、京平さんであれば言いやすい。それを天龍さんは知っているから京平さんを連れていくわけです。
「馬場さんは、本当はそういうことをやってあげたいんだけど、自分からは社長という立場的ににできなかった。それで天龍さんが僕をよこすと『また、天龍か』とか言いながら渡してくれるわけです。そこは阿吽の呼吸だったんじゃないかな」
京平さんは、トーク中も何度となく「阿吽の呼吸」という言葉を使っていました。選手とレフェリーも阿吽の呼吸。言葉を交わさずとも、お互いが何を考えているかわからなければ、うまく試合が回っていかないと。