謝罪を求めることの無意味さ
10月19日、夕方からのクリス・ブルックスインタビュー取材を控えたところ、気づかぬうちにDDT広報・関塚さんより何度かLINEが入っていた。よく見ると、電話の着信も。
何事かと思ったところ自分の方が集合時間を間違えており、余裕をぶっこいている間、すでに集合しているというではないか! 慌てて流星号に飛び乗り、エビスコ酒場へ向かう。これ、自宅より自転車圏内だったからよかったものの、離れたところの場合は25分遅れでは済まなかった。
こういう勘違いは非常に稀で、前回の同じ事案がいつだったか記憶にないほど。だから魔が刺したとしか言いようがございません。
とにもかくにも自分に原因があるから到着後、すぐさま待たせていたクリス選手、通訳のHakuさん、そして映像スタッフなど全員に謝罪。皆さん、いい方なので「全然問題ないですよ」と言ってくださったが、その後にドーッと押し寄せたのは罪悪感。
いくらポジティブな性格だとしても、こういう時は精神的ダメージが大きい。頭が回らずインタビューを開始するのに数分、時間を要す。
それでもクリスのおかげで取材はスムーズに進み、終了後も改めて「申し訳ございませんでした」と謝る。月並みな言い方になるが、こういうものは今後も気をつけるしかないのだが、ちゃんと精神的ダメージを受ける自分でよかったとも思えた。

クリス、遅れて申し訳ございませんでした
これで何も思わなかったり、あるいは「ちょっとぐらい遅れてもそんな大したことないじゃん」などと解釈する人間(それは待たされた側の受け取り方)だったら、そんな自分に嫌悪してしまう。そこは表向きにどう見せようとも、実際のパーソナルが存在してしまうものだ。
だから悪いと思った時、自発的に謝れる人間でよかったと心底思える。これは自分を誉めていたり評価されたりする意味で言うのではなく、人間として失ってはならぬものをちゃんと備えていることへの安堵感だ。
以前、偉そうに見られるのが性に合わないと書いた。普段から偉ぶり、威張っている人ほど謝れぬケースが多い。それはその人の性格もあるが、何よりも立場が許さなくなるのだろう。
偉そうでなければならないのに、人に頭を下げるなどしたらそれが負い目となったり、あるいは恥として見られたるするのではと受け取ってしまう。
謝るのは恥。謝ったら負け。