佐々木貴殿へのtheLetter
貴殿の存在を始めて認識したのは、2000年の3月だったと記憶しています。その年はみちのくプロレスがホスト団体となり、第3回SUPER J-CUPが開催されました。そこに出場する選手のうち1枠が、格闘探偵団バトラーツ主催の「JJCミレニアムトーナメント」で争われることになりました。
当時、メジャーとは違う独自のジュニアシーンを創ろうと、みちのくプロレス、大日本プロレス、バトラーツが中心となったJYB(ジュニアヤングブラッド)というムーブメントが進められていましたが、それに属さぬインディペンデントからも選手を発掘するべく開催されたのが、このJJCトーナメントでした。そこへDDT代表として出場したのが、デビュー3年4ヵ月の佐々木貴なる若者でした。
同じインディー団体でも、前述した3団体とDDTでは明確な差がありました。ザ・グレート・サスケらスタープレイヤーたちがいるみちのく、デスマッチで支持される大日本、両国国技館に進出したバトラーツに対し、DDTは髙木三四郎、野澤一茂、三上恭平という無名のドインディーレスラーが旗揚げした弱小プロモーション。北沢タウンホールで定期的に開催するなど、旗揚げ4年目にしてようやくプロレス業界の片隅に引っかかってきた程度の存在でした。
マイナー団体を流浪していた選手たちの寄せ集めといったイメージ。だから、J-CUPに通ずるような場にその選手が出るなど発想自体がなかった頃で「DDTはDDTとして独自のことをやっていればいい」という雰囲気が団体内にもこびりついていました。
そんな中、初めて“外”を意識し発言したのは、私が知る限り佐々木貴が初めてだったと思います。DDTにトーナメント出場の話が来た時、髙木三四郎から「ウチは佐々木くんを出します」と言われ、タウンホールで紹介されました。
その頃はまだ、週刊プロレスのDDT担当ではなかったため、そんな若手選手がいたのも知らず。でも「僕は外に出ることで、DDTの三文字をもっと広めたい。プロレス界にDDTの名を知らしめたい。僕はプロレスって、闘いだと思っています」と熱く語る姿に、ちゃんと他団体を意識した選手がいるんだなと思ったのを憶えています。
当時のDDTは、日本のプロレスシーンではまだ少しばかり早かったエンターテインメント路線に踏み込んでいました。その団体から「プロレスは闘い」と主張する選手が現れたのです。
史実的に、DDTをインディーの寄せ集め集団から脱却させたのはHARASHIMA、飯伏幸太とされています。そこからもう少しさかのぼると、HERO!&KUDOの出現により団体の業界内立ち位置は変わりました。
ドインディーの泥臭さを払しょくし、洗練されたプロレスを体現できるようになったのはこの2人の存在があったからこそ。そこへ飯伏が加わったことで、DDT両国国技館初進出へと進んでいきます。
ただ、HERO!とKUDOの成長以前…つまり、DDTの歴史において初めて“未来”の二文字を託されたのは誰かというと、佐々木貴とMIKAMIでした。旗揚げメンバーのMIKAMIと、IWA格闘私塾から移籍する形で4人目の所属選手となった佐々木は、DDT育ちの若い選手。
2人によるKO-D無差別級タイトルマッチを後楽園のメインに据えて、勝負に出たこともありました(2003年7月17日)。しかし、その1年後に佐々木貴はDDTを退団する道を選択します。
「もっと外を見たいと思った」というその理由はあの時、タウンホールのバックステージで語ったのと根っこは同じでした。2004年9月30日、後楽園ホール。貴殿はハードヒッティング路線を売りとした別ブランド「y2D」でバチバチやり合っていたタノムサク鳥羽との壮行試合を終え、髙木三四郎に花束を手渡されると泣きじゃくりました。この時の週プロリポートで、私は以下のように書きました。
「申し子という言葉を使うのであれば、DDTでは佐々木貴がもっともしっくりとくる存在だった。髙木三四郎や木村浩一郎の次の世代で、団体の方向性を体現し続けてきた男。その一方で、今のように他団体で顔を売っていなかった時から外でも認められたいという向上心を口にしていた。エンターテインメント性とは対極をなすハードヒッティング路線に拍車がかかったのもこの頃。ATOMで顔面や胸板がひしゃげるまでに殴り合い、蹴りまくるそのスタイルは世界で一番間近で見ることのできるケンカだった。彼らにとってはそれが、弱小インディー団体という見方に対する誇りだった」
その後、まさかデスマッチに足を踏み入れたばかりか、自身で団体を設立するなど想像さえしていなかった頃の追憶です。プロレスラーとしてデビューしてから30年、あの涙のDDT卒業からもうすぐ丸22年。佐々木貴は「殿」となり、2009年より17年もの歳月を費やし育ててきたプロレスリングFREEDOMSの年間最大のビッグマッチで、初めてメインイベントの晴れ舞台に立ちました。
サムライTVのFREEDOMS中継コメンテーターという立場から、今年で5回目の開催となる横浜武道館のメインには、毎年思い入れを持たずにはいられません。ただ、その中でも今年は特別な位置づけが自分の中にあったと思います。
旗揚げ以来、殿は常に仲間たちへ大きな舞台を託してきました。盟友の葛西純、エースにまで育てあげた杉浦透、そして「徳島の田舎から右も左もわからず出てきてゼロからスタートした」平田智也。そこに殿の存在がなければ、今とは違ったステータスになっていたのかもしれません。
8・20後楽園で平田がビオレント・ジャックを倒し、KING of FREEDOM WORLD王者になったことで、横浜武道館メインのカードが確定しました。自身の30周年記念試合として、同王座へチャレンジする――その意思を表明した時、50歳を過ぎてもあの頃の向上心をまだ持ち続けていたんだなと感心させられました。
ただその反面、試合形式を通常ルールとしたのは厳しいのではというのも正直なところ。デスマッチであれば凶器によって体力的な差をカヴァーできますが、いくら五十代になっても元気と言い張っても、肉体的ポテンシャルに関しては圧倒的な差があります。
あのジャックと渡り合っても力負けせず、最近ではアルゼンチン・バックブリーカーの状態から頭上で持ち直し、ジャーマン・スープレックス・ホールドに持っていくという荒技も開発した平田のパワーと瞬発力に太刀打ちできるのか。メインのリングへ立つには、それ相応の内容を見せなければなりません。
今の殿に、それは可能なのか。期待と不安、二つ我にあり状態でメインイベントを待ちました。
今年に入って始めた選手が入場口に立つ企画、ウェルカムシェイクハンドでは殿が自らファンを迎え入れました。オープニングにも登場し、相変わらずの裏返る声でビッグマッチの狼煙をあげ、その3時間後には「This Is War」に乗ってコーナーポストに立ち「バキューン!」とやりました。

この曲はもともと、旗揚げ当初のDDTが入場式等で使っていた、いわば初代団体テーマ。それを今も使い続けており「プロレスは闘いだ!」の精神がこめられています。

この日、殿が見せたのはまさに闘いそのものでした。シングルマッチでも動きはキビキビとしており、一発一発の技もキチンと決める。体幹が弱まるとフォームも崩れますが、前半は五十代とは思えぬほどの軽快な動きで場内を沸かせました。
しかし、試合が進むにつれて平田が肉体言語で圧倒してきます。本当に殿は、とんでもないモンスターを育てあげてしまいました。


